ビーチコーミング関係は別ブログに引っ越しました。こちらでは日々の出来事を写真とともに紹介します

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在宅ターミナルケア12 ~そして、在宅ターミナルケアーに~

病院に通い始めた頃から比べると、父の行動範囲は日に日に狭くなってきました。父の部屋は2階にあるのですが、放射線治療に通えなくなってからは、1階に降りることが出来なくなりました。 

少しでも歩くと、息苦しくなってしまうようで、父の部屋から数歩先にある2階のトイレに行くのが精一杯という状況になっていました。食事も母が、2階の父の部屋に運ぶ事になりました。


日中は、書き物をしたり、テレビを見たり、自分の部屋でのんびりと過ごしていました。倒れる前に無理して模様替えした甲斐があったようで、ベットから机までの距離は本当に1歩の場所なので、苦労なく移動できるようです。父は、小さい頃小説家になりたいという夢もあったみたいで、書き物をしながら自分の気持ちを整理していくのが好きだったようです。


しかし、父がずっと書き残していたものは、すべて破棄してしまっていました。自分の命が残り少ないと感じた時にすべてきれいに整理したと言ってました。たぶん、病院に行く前だったのではないでしょうか。父が、闘病中に書き残したものも、翌日には破棄していたので、私は何を書いていたのかは全く知りません。しかし、本当に身辺整理は、恐ろしいほどきちんとしてありました。自分の足跡を一切残さなかったですからね。


このように、自分の出来る範囲で、自分のやりたいことを気ままにやりながらの闘病生活を送っていましたが、本当に日に日に悪くなるのが目に見えてわかります。ある日、とうとう錠剤が飲み込めなくなったと聞いてあわてて実家へ。昨日までは普通に飲んでいたのに・・・

主治医に相談した結果、モルヒネ以外は潰して飲んでも大丈夫との事。モルヒネの錠剤は小粒で、そのまま飲み込めるので問題なしでした。最初、試しに私が薬をつぶしてみましたが、その後は父が、自分でつぶして飲んでいました。結構力がいるので、大変な作業だと思うのですが、父は、自分で出来る事は全部自分でやっていました。ご飯を作る事以外ほぼ自分でやっていたのではないかなぁ。 

翌日、主治医が往診に来てくださいました。これから、自宅で療養することになるので、介護保険を申請してくださいと言われました。そして、自宅療養のための介護体制を整えてくださいました。

その日の午後、妹と2人で市役所に行き、父の介護保険の申請をしてきました。
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在宅ターミナルケア11 ~胸水を抜く~

母が入院した日、丁度父の外来の日でした。ほとんど寝ていなくて、早朝妹を病院に迎えに行って来たので、疲れ果てていました。ありがたいことに、主人が車を出してくれるというので、子供達も含め大所帯で父の外来受診に行きました。結局、この日が最後の外来受診となってしまいました。

父は、胸の苦しみを訴えていました。この日もう一度レントゲン撮影をした結果、初診の頃に比べて、胸水がかなりたまっているのがわかりました。もちろん、モルヒネの量を増量してはくださいましたが、胸水を抜いてみてはどうでしょうか?と先生が提案してくださいました。

父は、胸の苦しみが和らぐのならお願いしますということになり、この日胸水を抜く処置をしてもらう事になりました。結構、素直に治療を受け始めたなぁと見ていて感じました。まあそれだけ辛いのでしょうね。

妹、旦那、子供達は、母の入院している病院に入院グッズを届けに行き、私1人が父の病院に残りました。胸水を抜くのに少し時間がかかると言われたからです。しかし、しばらくしたら、看護師さんと先生が、診察室から出てきました。

「胸水抜けないです。」

そういって、真っ赤な血液みたいな液体が入った注射器を片手に説明してくださいました。

胸水にすでに血が混じっているそうです。このまま胸水を抜くと貧血になってしまう可能性が高いので、入院して抜くのならば抜けますが、外来では抜く事ができないです。という説明でした。

悪性腫瘍があるので、もう血液浸出が出てしまっているみたいです。わかっていたつもりでいましたが、ここまでひどくなっているのではどうしようもないなぁと愕然としてしまいました。

主人達が母の入院先の病院から戻ってくるのを父と先生と3人で色々な話をしながら待ちました。その時に、自宅の家の詳しい場所を聞かれ、地図で確認する作業もしました。緊急時に家に来てくださるための準備なんだろうなぁと薄々思いました。その時、私は父の命はもう1週間くらいしか持たないんじゃないかと、本気で思っていました。 


数日後、病院のベットが空いたので、入院して胸水を抜いてみたらどうでしょうと、病院から電話が来ました。しかし、父は入院してまで胸水を抜く気はないと断りました。何度か、勧めてみたのですが父は絶対に入院する気はないようでした。今回短期でも入院してくれると、具合が悪くなった時に、素直に入院に応じてくれるだろうと思っていたのに、残念です。

しかし、この時父は、本当に具合が悪くなって自分の事が全く出来なくなった時は入院するからと言っていました。たぶん、自分で自分の事が出来なくなった時は、本当にそうしようと決めていたのだと思います。

在宅ターミナルケア10 ~母の入院~

とにかく、在宅ターミナルケアをするためには、家族の理解が必要です。父は、母と2人で実家で暮らしています。私は同じ市内に住んでいて、妹は他県に住んでいます。父が倒れてから、妹がたびたび実家に泊りに来てくれるようになりましたが、実質的には父と母と2人で生活しています。

母は、足腰が悪く、そして鬱傾向にあります。内臓疾患もあり当時31種類の薬を飲んでいました。父とは真逆の性格で、とにかく病院好き。具合が悪くなると病院に行き薬をもらってくるので量が増える増える。父の病気も治ると信じていて、現実を理解していない様子。まあ、そういう母に私はかなりのストレスを抱いていました。

父の食事を作るのは、母の仕事でした。というか、母には、父の食事だけ作ってくれれば良いからと言ってお願いしてました。父は、トロトロのお粥しか食べられなかったので、お粥と春雨スープ(カップスープ)を母は作っていました。 


父が、放射線治療を始めた頃のある日の夜、妹から電話が入りました。

「お母さんがおかしい!!」

突然ろれつがまわらなくなり、その後いびきをかいて寝てしまったというのだ。これは、緊急事態かもと思ったので、私はあわてて実家へ駆けつけました。


私が実家に着いた時には、母は寝ていました。いびきは少しかいていたかな。妹と相談して、とりあえず、救急に電話をしてみることに。電話をして今の症状を話したところ、とりあえず救急車で病院に運んでくださいという指示を受けました。

真夜中の救急搬送。近々そういうことが起きるだろうなと思っていたけど、それが父じゃなくて母だというのが信じられないというか予想外というか。もう、なんか頭真っ白状態でした。たぶん、近所の人達は、父が運ばれていったものだと思っていたことでしょう。救急車には妹が乗っていきました。私は、実家に泊る事に。父を1人にしておけませんからね。


いやぁ、本当にあの晩は、頭真っ白というか、この先不安だらけで、これからどうしたら良いのだろうとパニック状態でした。本当に、妹が実家に泊まっていた日で良かったです。

救急車に母が運ばれた時、父の部屋は本当に静かでした。たぶん熟睡していたのでしょう。私はリビングで妹の連絡を待っていたのですが、2階で父がトイレに行く物音がしたので、父の所へ行きました。

父は、何故私がこんな時間にいるのかわからなかったみたいで、母が救急車で運ばれたのも知らなかった様子。状況を話して、2人で妹からの連絡を父の部屋で待ち続けました。その間、重病の父は母の事をとても心配していました。 

妹からの連絡で、病院で検査した結果、脳梗塞の症状はないようでした。ただ、梗塞があった可能性もあるので、しばらく様子を見るために入院する事になりました。 

何故父が入院するのではなく母が入院するのだろう?やはり、実家に母と父2人だと心配だし、父が入院してくれたらどんなに助かるだろうと、その時は本当に思いました。母じゃなくて、父だったら良かったのにと。

翌朝早朝、妹を迎えに母の入院した、父が放射線でお世話になっている病院に行きました。朝焼けの空が、とても美しかったのが心の安らぎでした。

母は、3日間入院して無事退院しました。脳の障害は全く無かったみたいです。寝る前に睡眠薬を飲んでいるので、その影響だったのかもしれません。とりあえず、無事に退院でき、薬もコントロールしてくれ、30種類以上の薬がたったの8種類になりました。 しかし、母の入院騒ぎで、この先本当にどうなるのだろうかと不安ばかりが募って来ました。

在宅ターミナルケア9 ~放射線治療~

放射線治療を進められた翌日から、CTを撮った鴨川の総合病院に放射線治療のため通うことになりました。

最初の日は、放射線を当てる場所を決めるためのCT撮影です。先日撮ったCT撮影とは違って、今度は、放射線を当てる位置を決めるため、結構時間を掛けて撮影したようです。さすがに長時間は疲れたみたいで、父も苦しかったと訴えていました。

担当の先生から説明を受けました。連続10日間放射線治療を行う予定です。今週の予定を組んでくださいました。とりあえず、7月一杯は放射線治療に通う日々になりそうです。小細胞癌は、放射線治療が良く効くという話なので、もしかしたらかなりよくなるのではという期待も少しありました。


翌日から、片道1時間かけて、放射線治療に通い始めました。往復約2時間、私の運転する車の後ろの座席に父が乗っています。そういえば、父は私が仮免の時に横に乗って車の運転を教えてくれた時以来、私の運転の車には怖くて乗れないなんて言って絶対に乗らなかったのになぁって思いながら運転してました。でも、この往復の2時間は父と私の2人だけの時間でした。父は長く話をすると、胸が苦しくなるので、長くは話せなかったけど、この放射線治療に通う間、いろいろな話をしました。もう、父は長くないんだって思っていたので、私にとってこの時間は貴重でした。昔の話とか、父に聞いてもらいたかった話とか、私は、1人で話続けていました。でも、なんか母への愚痴が多かったような気もするなぁ。(母の話はまた後で書きます) もっと楽しい話をすれば良かったなと今ではちょこっと後悔してますけど。


放射線治療の前の日は、父はきちんとシャワーを浴び、モルヒネを放射線の時間に合わせて飲んでいました。というよりか、モルヒネが効いている時間になるべく放射線の時間を当てて予定を組んでもらっていたのですけれどね。シャワーを浴びるという行為は、父にとっては、かなり厳しい行為です。シャワーを浴びている間は酸素吸入ができないし、1階の風呂場まで移動しないといけないし、またいろいろ負担も大きく、かなり辛い行為になっているわけです。そして、片道1時間の車の移動、放射撮影、病院内の移動、さすがに毎日通うのは辛くなってきたようです。

3日目、父は息苦しそうでした。初めてこの病院の廊下を早歩きで歩いていた姿とは全く違っていました。そして、毎日は無理だから、一日か二日おきにして欲しいと言い出し、予定を組み直してもらいました。  

4日目、とうとう父は病院内を歩いて移動できなくなり、車椅子を使いました。私、車椅子初めてだったので、使い方わからず、病院の案内の方に教えていただきました。一週間前は、すたすたと長い廊下を歩いていた父が、たった一週間で車椅子移動になったことに少しショックを感じました。一日一日悪くなっていくのが本当に目に見えてわかるのです。

そして、とうとう病院にも行く事ができなくなり、4日間通っただけで、主治医を通して放射線治療の打ち切りをお願いしました。10日間治療ができなくても、4日間だけでも、受けなかったよりは多少は効果があると思いますという話しだったので、少し無理してでも受けて良かったなぁと思います。

確かに4日間だけでも、放射線治療に通ったおかげで、父は亡くなるまでの間、一度もあの激痛に悩まされる事はありませんでした。モルヒネの量も、放射線治療が効き始めた頃からほとんど増量されず、胸の苦しみは訴えていましたが、痛みを訴えた事は一度もありませんでした。

タカラガイパラダイス

父の介護も終わり、またビーチコーミングに行ける様になりました。 まあ、介護中もタカラガイの餌の海綿を取りに、何度かちょっとだけ海には行ってましたけどね。 ゆっくりと砂浜で貝を探す事はできなかったので久しぶり。

水曜日に布良、そして今日は白浜の根本海岸に行って来ました。

水曜日の布良は、行く予定が無かったのですが、実家の帰りにちょこっと寄ってみた所、タカラガイが沢山! ビーチコーミンググッズを持っていかなかったので(タオル、バケツ、飲み物、帽子、日焼け止め)長くはいられませんでした。この日は暑くてね、飲み物と日焼け止めないと長時間は危険です。

1時間ほどで、18種類のタカラガイ見つけました。

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拾ってきたのは15種類

クチムラサキダカラ、ウキダカラ、アジロダカラ、カバボシダカラ、エダカラ、ツマムラサキメダカラ、ホシキヌタ、カミスジダカラ、ウミナシジダカラ、ナシジダカラ、メダカラ、ハナマルユキ、シボリダカラ、カモンダカラ、コモンダカラ。 短時間で、これだけ拾えるのはとってもうれしい。


そして、今日は根本海岸にポンタと2人で行きました。 まあね、ポンタがいると集中して拾えないので、海岸散歩と台風の後の海岸の様子を見てくるか位の軽い気持ちで行ったのですけどね、なんとなんと、イボダカラ拾っちゃいました。

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もちろん、イボダカラは初めて拾いました。 これで、私のタカラガイコレクションは31種類。 まだまだ、先はながーーーいですが、地道に集めて行きますね。 南房総で拾えるタカラガイのイコンプリート目標だけど、目標達成は至難の業でしょう。 1年に2~3種類増やせればありがたや~の世界だろうな。
まあ、ボチボチ頑張ります。

在宅ターミナルケア8 ~ガン告知~

最初の診察から5日後の7月14日、2度目の診察に行きました。待ち時間が長いのは辛いので、一番最後に診察してもらうように頼み込んで受付時間ギリギリに出向きました。(それでも30分以上は待ちますが)

今日は、院長先生の診察日でした。CTや血液検査の結果が出ているので、ちょっと緊張しますが、父は相変わらず冷静でした。

すでに、父は自分が「肺癌」だと言って受診しているので、先生も腹を割ってお話しても大丈夫ですか?と前置きして、父に「肺癌の、小細胞ガンの可能性が非常に高い」と話てくださいました。

ガンの告知をされても、父は冷静に受け止め、私も全く心の動揺はありませんでした。やっぱり、がん告知をされる前から、うすうすガンだということをわかっていたから、心の準備は出来ていたのだと思います。

左の肺の肋骨の奥に小細胞ガンのガン細胞があるそうです。すでに肋骨に癒着しているそうです。前に起こった激痛は、骨に癒着したから起こったもののようです。別の場所に移ることを転移といいますが、くっ付いている骨にガン細胞が移っているので転移とは言わず、癒着というそうです。左の肺のレントゲン写真は、真っ黒。ほとんど機能していない様子でした。

家に戻って、ネットで小細胞ガンを調べましたが、進行が早く転移もしやすい、物凄く怖い癌である事がわかりました。そういえば、父のお腹にも大きなコブみたいなものがあるので、すでに色々なところに転移しているのかもしれません。


院長先生は「小細胞ガンは、放射線治療が良く効くガンで、また場所的にも放射線を当て易い場所にがん細胞があるので、放射線治療を受けてみてはどうですか?」と進めてくださいました。

しかし、父は「痛みさえなくなれば、ガンを治す気はないので、治療は受けない」とキッパリ。

しかし、院長先生は「これは、治療ではなくて緩和医療です。つまり、痛みを和らげるだけです。もう、この状態でしたら、治療はできません。このまま放置しておくと、モルヒネの量を増やしてもガンが大きくなりますから、痛みは治まりません。放射線治療は、治すのではなく、ガンの発育を抑えそれによる痛みを抑える治療です」と力強く力説してくださいました。 

さすがの頑固親父も、痛みを抑える緩和医療であり、放射線治療を受ければ、とりあえず痛みを抑えられるのだという事を感じ取ったようで、最後は「では、先生のおっしゃるとおりにいたします。」と素直に放射線治療を受け入れました。

在宅ターミナルケア7 ~CT撮影~

病気の原因を確定するために、CT撮影が必要だと言われ、鴨川市の大きな総合病院に行きました。初めて花の谷クリニックを受診して2日後のことです。

その病院は、日本でも有数の評価の高い総合病院で、実はそこに父を入院させたいと思っていた病院です。まだ、その時点では、在宅ケアという頭は無かったので、父がこの病院を気に入ってくれて、ここで治療を受けたいなんて言い出してくれるとありがたいなぁなんて思っていました。

病院の受付ロビーは、ホテル並みの豪華さで、職員の対応も良く、私と妹は、ここのオーシャンビューの病室にお見舞いに通いたいねぇなんて話までしていましたが、父は何故か病院っぽいところが息苦しいと、全く気に入った様子を見せませんでした。やっぱり、父にとっては病院は病院としか見えないようです。


酸素吸入機とともに、携帯用の酸素吸入ボンベも家に届けられていました。病院に行く前日、父に、車で1時間近くかかるので、携帯用酸素ボンベは持って行ってねと声をかけたら、「そんなものは必要ない」と言っていたのですが、当日はしっかりと携帯してました。やはり、酸素吸入を始めたら、それがないと息苦しくて辛いようです。日に日に、父が弱っていく姿を目の当たりにして、本当に娘としては辛い日々です。


総合病院の長い廊下を、酸素ボンベを引きながら歩いて行く父の姿を初めて見て、今までの凛々しい父の姿とは別人のようでした。しかし、足早に廊下を歩くのは、やはり病人ではないという父のプライドから来る事なのかなぁと思いながら一緒に歩いていきました。それにしても、歩くの速いんですよ。私達の方が、必死で付いて行っているって感じでした。


CTの検査の時に、看護師さんが「造影剤を使いますが、今までに造影剤を使った事ありますか? 今まで、なにか薬剤でアレルギーなど起こした事ありますか?」と聞いてきました。父は、そこでも自慢げに「俺は、今まで健康保険を使った事ないんですよ。ですからね、薬も造影剤も使った事がないので、アレルギーがあるかどうかなんて、わからないですよぉ~」と話し、看護師さんを驚かせていました。父は、医療従事者が、父の話を聞いて驚く姿を見て楽しんでいる様子でした。

妹と2人で、CTの検査の間、この豪華総合病院の見学に行こうと楽しみにしていたのですが、検査の時間がたったの15分と聞かされ愕然。結局待合室で待っていたら、すぐに父が検査を終えて戻ってきました。

やはり、酸素ボンベを外されての検査は少し辛かったようです。もう、酸素ボンベなしでは、父は生きていけないんだなぁと思いました。病院に行くまでは、酸素ボンベなんて、全く使わなくて普通に生活していたのにね。たぶん、それだけ身体に負担を掛けていたんだろうなぁ。


CT検査の結果は、次回の診察の時までにわかるそうなので、次回の診察時に父のきちんとした病名がわかります。

父は、家で酸素吸入をしながら、麻薬系鎮痛剤を服用し、全く痛みと呼吸困難から解放され自由気ままな生活を送っていました。この酸素ボンベを持っていけば、ゴルフも行けるなぁと本気で思っていたようです。

アース虫よけジャンボ線香

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家の庭の横は竹やぶ。 で、とにかくやぶ蚊が多い。 庭の草取りすると、とにかく蚊がまとわりついてきて、気になって気になって、草取りなんてできません。 もちろん、虫よけスプレーつけてもダメよ。

しかーーし、草取りの強い味方。 アース虫除けジャンボ線香。

毎年、近くのホームセンターで購入しているのですが、今年はどこのホームセンターでも取り扱ってないの。 結構値段が高いし、踏むと熱いので、人気がないのかも。 まさか、製造中止???

ってことで、ネット検索したらありましたので、10個まとめて購入しちゃいました。


今年は、父のことでほとんど実家に行っていたので、庭の草取りはあまりやってませんでした。 だからね、本当に凄い事になってる。 先に実家の庭の草取りなんぞをしたので、このジャンボ線香をお試しに使ったら、本当に蚊に刺されないと、妹にも好評でした。


これ1本で、約1時間持ちます。 だから、毎回草取りするのは、この線香が燃え尽きるまでの1時間。だって、この線香がなくなると、一気に蚊にボコボコにされちゃいますから。 ということで、疲れない程度に草取りができるので、私はこれがなくては、草取りする気にはならないの。


で、この蚊取り線香を焚くと何故か、やってくる奴がいる・・・・
ポンタだ!

奴は、この蚊取り線香の臭いが大好きで、庭の草取りをやっていると、線香の臭いをかぎにやってくる。 で、線香の近くに顔を向けて、ふぅ~んって吸ってから、去っていく。

健康に思いっきり悪いと思うんだけど・・・・・(一応注意はしますが)

でも、私も、この煙に撒かれながら作業をしているので、やっぱり健康に思いっきり悪いのかもしれません。 でも、蚊に全く刺されないのは魅力的。 どっちがよいのかなぁ。

まあ、お勧めのつもりで書いたけど、健康的じゃなさそうなので、蚊に刺されて困る人だけの方が良さそうですね。(笑)


在宅ターミナルケア6 ~病室の準備~

部屋に酸素吸入器が搬送されてきた時に、物凄く驚いた事がありました。それは、父の部屋の家具の位置が全く変わっていたことです。

父の部屋は、8畳位の洋間に以前ベランダだった部分を部屋に増築した3畳位の部屋がつながっています。まあ、形としては、洋間から続くベランダが部屋になっているという感じですね。

そして、そのベランダ部分にベットをおいて寝室にしていて、手前の部屋には大きな社長机、本棚、洋服ダンスがおかれていました。

実家に遊びに行っても、頻繁に父の部屋には行かなかったので、いつ部屋の模様替えをしたのかは、わかりませんが、父は自分で、この部屋で療養するのに一番過ごしやすい形に自分の身体が動くうちに作り変えようと思ったのでしょう。

3畳くらいのベランダ部屋に、自分の社長机とテレビとビデオが運ばれていました。その机って、昔父が職場で使っていた本当にでかいいわゆる社長机といわれる机なんですよ。私1人では持ち上げる事もできない位の重い机です。こんな机を、1人で肺が1個つぶれている状態で良く運んでこられたものだと、本当に驚異を感じました。父は、自分の身体が動かなくなることを感じ取り、この3畳だけの部屋で自分のやりたいことがすべて出来る様に部屋を作り変えていました。

酸素吸入機の説明を聞きながら、酸素吸入機よりも、よくこの机をここまで運んだものだとそっちばかりが頭にあって、説明どころじゃなかったのを覚えています。それだけ、私はあの部屋の模様替えを見て驚いちゃったんです。驚いたと同時に、父は本当に入院する気はないんだなぁと実感した瞬間でもありました。

今年は丁度良い数かも

カブト虫のマット交換しました。 今年は、早々にメスとオスのケースを分けました。 といっても、根がいい加減な性格なので、完全に分けられたわけじゃなくて、ある程度適当に分けたので、やっぱり一部では爆産してましたが・・・・

まだ、業者さんにマットを注文していなかったので、去年の残りのマットを使って一部マット交換しただけですので、正確な数はわかりませんが、まあ60くらいかなぁと思ってます。


60もいたら凄いなぁと普通は思うでしょうけど、毎年この時期200近くの幼虫を抱えてしまって、どうしたら良いものか~って思っているので、60という数はかなり余裕の数です。 

でも、カブト虫が余裕でも、今年スズムシが冗談じゃないぞという状態なので、結局トータルの虫ケースの数としては、去年とほぼ同じなのではないでしょうか。


中学になった娘から「お母さん、あの玄関の虫のケースなんとかしてよ!!!」と言われているのだけど、なんとかしたいけど、何とかできないんだよぉ~(ってする気もないけど)

もともと、中学の娘が幼稚園の時に「カブト虫欲しい」と言った一言がこうなっちゃったんだから、一応彼女にも責任があるんです!!! 


在宅ターミナルケア5 ~初めての受診~

父にとって、生まれて初めての病院受診は隣町にある小さな診療所でした。妹と3人で車で向かいました。道が良くわからなかったので、かなり遠回りして行きましたが、別の道を使えば、車で30分位の距離です。

外来診察が始まる少し前に着きましたが、すでに待合室には患者さんがあふれていました。父は受付で、保険証を出しながら「これ、今日初めて使うんです」と自慢げに言いました。
受付の女性は、最初はどういう意味なのかわからなかった様子でしたが、父が今まで病院に一度もかかった事がないと説明したら、驚いた様子で、新しく作成した父のカルテに、保険証を初めて使用と言うようなことを書いていました。


午後の診察は2時からですが、2時を過ぎても始まる様子がありません。病院を見渡しても、こじんまりとしていて、設備もあまり整っている感じではありませんでした。父と待合室で待っていた時は、正直、病院選びに失敗したと後悔していました。ここじゃなくて、隣の市の大きな総合病院のほうに行けばよかったとその時は本気で思っていました。


診察時間開始時間を大幅に超えてようやく診察が始まりました。このときは、ずいぶん時間にルーズな病院だと不満に思っていましたが、実は、午前中の診察を終え、午後の診察までの間に、先生は在宅療養の患者宅を回っていたのです。もちろんその時はそんなことはわからなかったので、具合の悪い父の待ち時間が長いのを心配しながら、怒りを覚えておりました。


1時間以上待ちようやく父の番になりました。父の生まれて初めての診察に立ち会えたのは、ちょっとうれしいような不安のような(医者と喧嘩するんじゃないかとマジで思ってました)複雑な心境でした。 

父の主治医となるA先生は、カラっとしたタイプのとても印象の良い女の先生でした。カルテに書かれている保険証を初めて使うという話から会話が始まり、父の今までの様子など、うなずきながらずっと聞いてくださいました。

そして、絶対に言われるだろうなぁと覚悟していた「どうして、こんなになるまで、病院に来なかったのですか?」という台詞を不思議とその先生は言いませんでした。父との会話を聞いているうちに、この先生は、父を丸ごと受け入れてくださっていると感じました。

父は、驚くほど素直に先生の指示に従い(これは、ちょっと不思議)、生まれて初めての血圧測定、採血、レントゲンなどの検査を受けていました。その間約1時間。父の後の患者さんたち、本当に待ち時間長くしてしまってごめんなさいって感じです。ただ、ここの病院では検査のできないCT検査は別の病院で受けてくださいと言われ、父はその指示にも素直に従いました。


問診、レントゲン結果などから、先生は父の病状を大体把握したのでしょう。まだ、きちんとした結果がでないので、病名ははっきりとわかりませんが、肺癌の可能性が極めて高いという言い方をしていました。そして、父の希望の『治療をするのではなく、今の現状(痛み)を押さえて欲しい。』という事を取り入れて、絶対にありえないだろうと思っていた、麻薬系鎮痛剤の処方と、酸素吸入機のレンタル契約をしてくださいました。もちろん入院を進めることもなく、痛みを抑えて暮らしやすくする方法をとってくださったのです。

父としては、本当にうれしかった事でしょう。病院から帰ったらすぐに、酸素吸入器が搬入されてきました。父は最初は抵抗していましたが、酸素吸入をするとかなり身体が楽になるみたいで、逆に喜んでいました。

やはり、終末医療を行っている病院だからこその対応だったのでしょう。その時、すでに父の身体は、治療が無理な状態まで癌が悪化していたのです。

在宅ターミナルケア4 ~病院に行くと言い出したが~

父が、もうゴルフに行けなくなった。と言い出したのが7月の始め。胸が苦しくて歩くのが辛くなってきたらしい。どうも6月30日のゴルフの時に、もう自分はゴルフは無理だと悟ったのかもしれません。

胸の痛みがかなり強くなってきたので、父は鎮痛剤が欲しいと言い出しました。薬局で買える鎮痛剤では全く効果がないらしく、父は処方せんを出してもらうために病院に行くと言い出しました。

父の口から「病院に行く」と言ったのは、たぶん生まれて初めてのことだったのでしょう。なにせ、生まれてこの方一度も病院に行った事のない人ですから。 

父の気持ちが変らないうちにと、近くの総合病院を調べたところ、呼吸器外来は木曜日なんだそう。仕方ないので、木曜日まで待つことにして予約を入れました。とりあえず、病院にさえ行ってくれれば、気持ちも変るかもしれないし、とにかく主治医ができるのがありがたいと思ったのです。

しかし、父はあくまでも、病院に行くのは検査をして処方せんを書いてもらうためで、入院を勧められても絶対にしないとの事。私は、そんなに都合の良い展開には絶対にならないと信じていました。


しかし、木曜日を待たずして大変な出来事が起きました。火曜日に父が左胸の激痛に襲われ、もう少し長く続いていれば自分で救急車を呼ぶところだったという位の激痛だったそうです。さすがの父も、早く病院に行って鎮痛剤が欲しい(それも麻薬系)と言い出しました。


実は、妹が、頑固者の父でも行く気になれるような病院をいろいろ探してくれていて、父が理想としているターミナル医療をやっている千倉にある花の谷クリニックという病院の本を父にプレゼントしていたのです。ただ、そこは終末医療専門なので、最終的にはここの病院に入院するという気持ちではいたようですが、まだ、入院するほどの事ではないと思っていたので、この病院はその時まで全くノーマークでした。

しかし、木曜日まで待っていられない状況になってきたので、花の谷クリニックのホームページを見てみると、外来受診を受け付けているようなので、とにかく行ってみようということになりました。

本当に、この病院との出会いが、父の人生最期の幕切れを変えたのだと思います。この病院と出会えなければ(この時点で受診をしていなければ)たぶん、何かしら悔いの残った人生の幕切れだっただろうと思います。火曜日の発作は、本当に運命を変える発作だったんだなぁと今から振り返るとそう思います。とにかく、この後、父が望むとおりにすべてが進んで行きました。

在宅ターミナルケア3 ~心の葛藤~

父が自宅でターミナルケアを行うにあたり、最初からそのようにしたいという気持ちは私にはありませんでした。父の性格を知っているので、無理だろうとは思っていましたが、やはり病院に入院して病をしっかり治して欲しいと願っていました。

父の異変に気が付いたのは、去年の暮れ。まあ、もっと前からちょっと変だなとは思っていましたが、これは病院に行かないとダメだろうと思ったのは、その頃からです。咳が止まらなくなり、血痰が出始めたと母から聞きました。父に「病院で検査だけでも受けてみたら?」と何度かたずねた事がありましたが、その都度「病院なんかに行ったら、帰ってこられなくなる」と言い(自分で具合が悪いのはわかっているのです)絶対に行こうとはしませんでした。 

これは、私だけでなく、父の周りの人達も同じで、みんなから病院に行くように言われていたにもかかわらず、絶対に行こうとはしなかったのです。その頃は、本当に頑固で自分の身体を全く大事にしない父だと思ってました。しかし、今は父の気持ちが良くわかります。決して自分の身体を大事にしなかったわけではなく、自分の体の事を一番良く知っていて、自分の体と対話しながら、自分らしい人生を歩んでいたのだと。しかし、その頃の私は、そういう父の気持ちは全く理解できませんでした。


今年になって、父が身体の不調を言い始めました。今まで、傍から見ると具合が悪そうだと思っても、父の口から具合が悪いという言葉は一切無かったのですが、胸が痛いと言い出し始めました。私は、すぐにでも病院に行くべきだと勧めたのですが、不調を訴えながらも病院に行く事はしませんでした。

このまま、父が倒れたら、絶対に「どうして、こんなになるまで病院に連れて行かなかったのですか!」と責められるのは私だから!! と父に反発もしたし、父が一日でも長く生きてもらいたいというのは娘の願いだし、父の希望を優先しないで、無理やりにでも病院に連れて行かないといけないんじゃないかとずっと悩んでいました。病院に連れて行かないといけないと思いながら、頑固親父を病院に連れて行くこともできず、自分の無力さにずっと打ちひしがれていました。

6月に入り、大好きだったタバコが吸えなくなったと言い出し、酒も飲まなくなり、食事もお粥を食べるようになって行きました。このままだと父が死んでしまうと本気で思い始め、しかし本人が治療する気がないので、どうする事もできず本当に心の葛藤が続いていました。

ただ、ここまで来たら、父の好きなようにさせてあげるのが一番だろうなぁという気持ちも強くはなってきました。というのも、父が断固として自分の生き方を貫いているからです。具合が悪くても、自分らしく生きる生き方を。だから、亡くなる2ヶ月前まで、普通にゴルフを楽しみ釣りを楽しみ、好きな事を誰にも制限される事なく続けていました。タバコも、酒も飲んでいました。父は、最後ゴルフをした6月30日まで本当に自分らしい普通の生活を楽しんでいたものと思います。

病院に行っていたら、病気を治すためにかなり制限を掛けられた事でしょう。確かに、長生きはしたでしょうけど、父は、長く生きるのではなく自分らしく生きる人生を選んだのです。生かされている人生は自分らしく生きる人生ではないと。人間も動物、自然の摂理で生きてそして死んでいくものだと。


私も悩み続けてきましたが、その頃はたぶん父は最期まで自分の行き方を貫くだろうなぁ、そうじゃないと、自分が考えてきた20・40・20の人生を楽しめないんだろうなぁと。だから、自分の気持ちが固まっていくにしたがって、なるようにしかならないのなら、父の人生を応援するかという気持ちになっていき、私の心の葛藤もだんだん少なくなって行きました。

在宅ターミナルケア2 ~父のこと~

私が、自宅で父を見送ろうと決意したのも、父という人間を娘として尊敬しており、父の凛とした人生を最後まで父が思い描いていたように送るための手助けをしたいと思ったからです。

まず、このテーマを書くにあたり父という人物像をお話しようと思います。これは、あくまでも長女である私から見た父であり、実際はもっとたくさん色々な面を持っている人だったんじゃないかと思います。


とにかく父は、自分の人生ポリシーをしっかりと持っていました。これは、父が幼年期からずっと描き続けてきたものであり、誰がどんな事をしても絶対に破壊する事が出来ないくらい物凄く強いものでした。

人生を20・40・20に分け、最初の20年は学ぶ期間。 そして次の40年は、仕事を持ち家庭を持ち全力で社会に貢献する期間。そして、最後の20年は、社会から引退して老後好きな事をして過ごす期間。最後の20年を充実させるために先の60年があり、本当の人生は最後の20年なんだって。父は、その最後の20年を過ごすために、この地に土地を買い家を建てました。そして、長年自分が作り上げた会社の管理職の座をあっさりと捨て、60歳で引退しこの地に移り住み、自分の老後を満喫していました。


そして、もう一つ、父は健康保険を一度も使った事がない人でした。健康保険を生まれてから一度も使った事がないというのは、どういうことかと申しますと、一度も病院に行ったことがないんです。歯医者も、検診もやった事がありません。とにかく、医者嫌いで、いかなる病気もそれまでは、気力で治してきました。自分が主治医です。

父が、何故病院に行かなかったのか。とにかく、病人になりたくなかったのだといいます。そのために、健康管理はしっかりとしていました。ストレスをなくし、適度な運動、そして食事。父は、そういう生活を送っており、病気になった場合は、それは運命だと考えていました。このような生活を送っていても病気になるのは、それは寿命なのだと。

私は、実家とは車で15分の距離に住んでいますが、父は本当に自分のやりたい時にやりたいことをしていたので、実家に行っても父は留守という日が多かったです。 

しかし、去年あたりから、娘から見て、父の具合が明らかに悪いと感じ始めました。そして、今年になり、血痰が止まらなくなり、胸の痛みも出てきたらしいので、何度も何度も父に病院に行くようにお願いしましたが、その度に断られていました。

まだ、釣りやゴルフに行けるんだから、大丈夫だとその度に言っていたのですが、とうとう7月の初めに、もうゴルフには行けなくなったと父が言った時に、もうそろそろ父が危ないと悟ったような気がします。

ちょうちんとダダ飯

ポンタは、お父さんから、じいちゃんのお線香係りを仰せ付かった。 ポンタは、線香が短くなると、せっせと新しい線香を上げていた。 

「あ! おじいちゃんにチョウチンあげてこなくっちゃぁ~」

と言っては、おじいちゃんのところへ行く・・・・


チョウチンって・・・・・ なに?


やつは、線香のことをチョウチンと言っているらしい。 

ポンタ、あれはチョウチンじゃなくてセンコウだよ。って言ったら、あ、そうだった。と一応納得するのだが、すぐに、チョウチンだかセンコウだかわかんなくなっていく・・・

でもね、親戚間では、もうそれが知れ渡っていて、チョウチンでもみんな通じちゃうので、ポンタ語として成り立っちゃいました。 こんなことをしていて、大丈夫か、ポンタの日本語!!


通夜ふるまいの席で、親戚で寿司を食べながら、そこにあるビールやジュースを勝手に開けて飲んでいたんだけど、やたら、コーラやサイダーを開けて飲んでる。 まあ、別にケチらなくても構わないんだけどね。 翌日も朝一番にもコーラを1本。 なんか、幸せそう。

「ここの飲み物はタダだからいいねぇ~」

と言って、サイダーを飲んでいたので、こいつ、ここにある飲み物、タダで飲み放題だと思ってたんだぁ~!!!!!

やたら、遠慮なく、ガツガツ飲んでたわけだ。 


亡くなった、じいちゃんが
「ポンタは大器晩成型だから、大きくなったら、スーパーポンタになる(そういう言い方じゃないけどね)」と言っていた。

いつになったらスーパーポンタになるのだろうか・・・・・


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きいこ

Author:きいこ
千葉県房総半島の端っこでのんびり暮らしています。主婦からパートのおばさんになりました。 大学生と高校生の子供がいます。

趣味はビーチコーミング ビーチコーミングは別に専門のブログを立ち上げました。

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きいこのビーチコーミング日記


実家の父の在宅介護記録もあります。父の介護を通して家族の在り方などをつづっています。

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